ぶけっこ  タクムは、銃弾の嵐の中で考える。  おとといくらいまでは普通の高校生をやってたはずである。  たしかに、普通とは言えなかった部分は否めない。普通の高校生は水の上を走ったり移動のため四階から飛び降りたりはしないと思う。タクムにだってそれくらいの自覚はあった。  だが、だからこそつつましく生きていこうと思っていたのだ。  なのにどこをどう間違えたのだか、今は物陰に隠れて銃撃を耐えている。向こうには無数のヤクザと最強のクマがいて、タクムを狙っている。  傍らにいる白無垢姿の少女を見やる。  彼女は、涙をこらえ歯を食いしばっていた。体は震えていて、突っ張ってるくせにタクムの裾をつまんでいたりしている。  息を吐き、決意を固めた。  タクムは眼鏡を外し、彼女に差し出した。 「――片付けてきます。預かっていてください」  今日だけだ。  とりあえず、普通をやめて、彼女の言うところのサムライなるものになってみる。  タクムは立ち上がり、叫んだ。 「決闘を申し込みます!」  四八時間前――。  体育のサッカー中、タクムは視線を感じていた。  試合は今、コート中盤での攻防が繰り広げられている。タクムはといえば、ディフェンスの最後方でその様子を見守っていた。ときどき、ボールの動きに反応するふりをして左右に動いているが、まったくといっていいほど目立たない。  むしろタクムは努めて目立たないようにしていた。  その気になればセンターラインからゴールを決めることも可能だが、そんなことをしては次の日から大注目を浴びることになる。  考えるだけで寒気がする。  だから視線を感じるとは由々しき事態だった。それとなく周囲を見回し、その正体を探ろうとするがーー 「須藤、危ない!」  しまった、と思ったときにはもう遅かった。  反射的に振り払った手。  軽い衝撃とともに、何かがはじけて飛んだ。  コート中の人間の動きが固まる。時間が停止したかのような静寂の中、ぱさっと、タクムの傍らにぼろきれのようなものが落ちた。  破裂したサッカーボールだ。  敵チームのエースが放ったシュートが、ぼーっとしていたタクムの顔面を捉えたのだろう。  気を抜いていたタクムは、つい反射的にボールを切り捨ててしまった。  振り払った手を顔に持っていき、ずれた眼鏡を直す。情けない苦笑いを浮かべてつぶやいた。 「……すいません。ハンド、ですよね?」  タクムは物心ついたときから超人だった。  逆上がりも自転車も、習得するのに苦労した覚えはない。  成長してからも卓越した身体操作術は磨きがかかり、人体で理論上可能なことはほとんど実現できるようになってしまった。  聞く人が聞けば、うらやむような力だが、タクム自身が望むのはただ平穏な生活のみである。必死に力を隠す毎日だ。  それでもときどき気を抜いて、先ほどのようなことをやらかしてしまう。 「俺、かまいたちって初めて見たよ」  放課後、クラスメイトたちがそういうのを聞いて、タクムは胸をなでおろした。  常識的に考えて、素手でサッカーボールを引き裂くなど不可能だ。かまいたちだって同じくらい不可解な現象のような気もするが、みんなはそれで納得してくれたらしい。 「しかし、須藤のまわりってときどき変なこと起こるよな」  クラスメイトの一人の言葉に、タクムは身をこわばらせる。 「そ、そうですか?」 「半年くらい前にお前のドッペルゲンガーがいたってこと、なかったっけ?」  あった。もちろん、ドッペルゲンガーなどではない。母に用事を頼まれたことを忘れ、急いで帰ったせいだ。つい教室を出てから五分で数キロ離れた場所に移動してしまった。その移動先で別のクラスメイトに目撃され、ちょっとした話題になった。  ほぼ同時刻に、同じ人間が離れた場所にいるのがわかったら、そりゃ話題にもなる。 「あ、あれは他人の空似だって言ったじゃないですか。ドッペルゲンガーだったら僕、もう死んでるんじゃないですか」 「それはそうだろうけどーー」 「そ、それじゃ僕、急いでるんでもう帰りますね! さよなら!」  これ以上話していてもおもしろいことにはならない。タクムは話を切り上げ、足早に教室を立ち去った。もちろん、努めて遅い速度で。  とにかく、これ以上失敗はできない。  校舎を出たところで、タクムは改めて心に誓う。  須藤タクムは普通の高校生であり、普通の人間なのだ。ならば普通の振る舞いをして、普通の人間として周囲に認知されなければならない。  そのためには、今まで以上に徹底して、目立たず、控えめに生活しなければいけない。  と、校門のところに妙な人物かいるのを見つけた。  下校時刻なので人はたくさんいるが、その中でひときわ異彩を放っていた。  和服である。白を基調にした高級そうな着物だ。  そして、かなりの美人である。長い黒髪、鋭い視線。年はタクムと変わらないように見えるが、ほとんど別の人種かと思うほど整っている。  彼女の目が、タクムのほうに向いた。  研ぎ澄ました日本刀のような視線に、覚えがあった。 「須藤タクムだな」  彼女が言った。存外、かわいらしい声だった。 「変わらんな、おぬしは」 「どなたですか?」  むっと、心外そうな表情をされる。ため息混じりに答える。 「久しく顔をあわせなんだが、忘れるとは無礼なやつよの。まあ、よいわ。獅子堂一流(ししどう いちる)だ。思い出したな。約束をたしかめにやってきた」  まったく知らない。タクムは人の目を見ないで話すので他人の顔をなかなか覚えられないのだが、こんな子ならすれ違っただけでも忘れないだろう。 「あの、やっぱり人違いじゃーー」 「なんじゃと?」  にらまれた。 「あぁー、はいはい、獅子堂さん、ですか。約束、約束ですね」  と、思い出したふりをしてしまった。空気を読む人間の悲しき条件反射。とりあえず話をあわせて約束とやらを思い出そうと思った。 「思い出したのなら、結構」  一流は満足そうな笑みを浮かべると、手にしていた包みを差し出してきた。  長い棒状のものを布袋に入れている。受け取ると、わりと重い。  包みを解くと、一振りの日本刀が出てきた。  彼女ももう一本の刀を取り出し、鞘から抜き放った。 「わしに勝てば、わしはおぬしを婿として迎える。我が一族を担うにふさわしいほどの男か、ためさせてもらうぞ」 「……は?」 「だから、約束のことじゃ」  断じて誓う。  そんな約束、するはずない。 「あの、ちょ、ちょっと待って」 「なんじゃみっともない。サムライたるもの、常に決死の覚悟を持っておらねばならぬというに」  ―ーサムライってなにさ! 「なに、あれ?」 「映画の撮影かなんかかな?」  その声にタクムは、自分たちが周囲に注目されていることに気づいた。そりゃ、刀持って校門でもめてる人間がいたら目立つに決まってる。  『普通の生活』がどんどん遠のいていっている。 「あ、あの、やっぱ人違いではーー」 「はぁ? 貴様、先ほど自分でも認めたではないか」  そのとおりだった。  いまさら全然知らないですと言っても、怒らせるだけだろう。この短いやりとりの間でも、彼女がかなり短気で自己中心的なことにタクムは気づいていた。 「わ、わかりました。受けます。けど、とりあえず場所は変えませんか?」  それとなく周囲に目を向ける。それで彼女のほうも、ようやく自分たちが注目されていることに気づいたらしい。 「ふん。騒がれても面倒じゃな。よかろう。場所は任せる」 「はい、じゃあこちらに」  彼女に先立って、校門を出る。  同時に、それとなく周囲を探る。すぐに目的のものは見つかった。  あとはタイミングだけだ。 「しかし、里は軟弱な者ばかりじゃの」  一流が、コンビに前に座り込んでお菓子を広げている男子学生を見て、顔をしかめた。 「お菓子はお嫌いですか?」 「嫌いも何も、食おうとも思わん。あんなもの、サムライの口にするものではない」 「あはは。そうですか」  適当に相槌をうちながら、タイミングを見計らう。 「ん、獅子堂さん。あれなんですかね?」  タクムが後ろのほうを指差す。 「なんじゃ。なんかあるのか」  一流もつられてそちらを見る。  三毛猫が道を横切ろうとしていた。 「あれがいったいーー」  視線を戻した一流が、固まる。  その様子を、タクムは閉まるバスのドア越しに見ていた。 「なーー」  一流の髪が、バスの排気ガスで揺れる。  タクムは彼女を振り向かせた瞬間に、ちょうど横に停まっていたバスに乗り込んでいた。バス停まで、歩数と速度を調整してうまく乗り込めるようにしたのだ。ちなみに刀もちゃんとバス停に立てかけておいた。  呆然とする一流を残して、バスは走り去っていく。 「ま、待て!」  タクムはガラス越しに、もう二度と出会わないだろう彼女に謝罪の会釈をした。一流の姿は小さくなっていき、やがて見えなくなる。  タクムは大きく息をつく。  平穏な日常のたしかな訪れを感じていた。  家に着くころには日が傾むいていた。  タクムが乗ったのは家から反対側のバスだった。念のため隣町で降りて、回り道をしながら帰ってきた。追われている気配も感じなかったので、あの少女は完全に撒けたのだろう。 「それにしても、誰だったんだろう」  タクムの中では彼女の人違いか勘違いだということで確定しているのだが、自分の名前が知られていたことが気になった。そして、約束という言葉。  胸の中に、なにかざわめくものを感じる。 「ま、いいか」  どうせもう二度と会うことはないのだ。  そう思って玄関のドアを開ける。  一流が立っていた。 「――っ」  軽いパニックに陥る。  その一瞬、憤怒の形相の一流は刀を抜き放ち、振り下ろしてくる。  白刃はタクムの頭を割る寸前、ドアの縁に引っかかって動きを止めた。  思わずへたれ込んでしまう。 「な……なな……」 「なぜ逃げた!」  一流の鋭い激昂に、タクムは身をすくませる。 「一度受けた決闘を覆し、姦計を用いて逃亡するなど卑怯にもほどがある! 貴様、それでもサムライか!」 「……いや、違いますけど」  一流の目が見開かれた。 「では約束はなんだ! ともに士道を往くという約束、忘れたとは言わさんぞ!」 「それきっと人違いーーあ」  一流の勢いに押されてぽろぽろと本音をしゃべっていたことに、タクムはいまさらながら気づいた。  一流は、笑っていた。  憤怒が窮まって笑みになるーー壮絶な表情だった。 「もういい。貴様はここで手打ちにしてくれる」  ドアの縁に食い込んだままの刀に、力をこめる。  が、 「ふん、ぬぅーーっ」  歯を食いしばって刀を引き抜こうとするが、びくともしない。ぷるぷると腕が腕が震えている。見る見るうちに顔が赤くなっていく。 「――くうっ。はあ、はあ、はあ」  とめていた息を吐き出し、肩で息をする。見ているほうがかわいそうになるくらい一生懸命だが、結局刀は抜けていない。 「はあ、はあーーう、げ」  赤かった顔が青くなっている。力を込めすぎて気持ち悪くなったのだろう。口元を押さえて、しばらくもだえていた。 「だ、大丈夫ですか?」 「う、うるさい! お前になど、刀もいらん!」  罵倒と同時に、一流は拳を振り上げた。そのままタクムに突き出してくる。が、 「ひゃ」  という声とともにつんのめる。踏み込んだ足が、自分の着物の裾を踏んでいた。  転倒。  地面に頭から衝突する。タクムが止める間もないほどの、見事な転びっぷりだった。  そそくさと、タクムは刺さったままの刀に手をかける。先に凶器のほうをどうにかしようと思っただけだ。  刀は、あっさりと抜けた。  別にまたタクムの超人的能力が発揮されたわけではない。ちょっと手元をひねっただけで抜けてしまった。逆に、引き抜くのにどうやってあんなに苦労したのかが不思議なほどだ。 「あの、獅子堂さん?」  床に投げ出されていた鞘に刀を納めたところで、まったく動かなくなった一流が気になってきた。  おそるおそる近づき、そっと肩をたたいてみる。  反応はない。  思い切って、彼女の体を仰向けにしてみた。  泡吹いてた。  どう見ても、意識はない。 「あら、タクム。お帰りなさい」  のんびりした声が家の中からした。母だった。一流を見ると、目を丸くした。 「まあ、一流ちゃん、伸びちゃったの?」 「……母さん、知ってるんですか?」 「知ってるも何も、本家のお嬢さんよ。もともとご両親もいなくて、今はおじいちゃんも亡くなったから、一応、うちの一族の家長ね」  本家。タクムの家系は元をたどれば由緒正しい武家の血筋につながっている。今ではまったくといっていいほど関係は途絶えているが、今も江戸時代と変わらない生活を送っているという本家の噂は何度か聞いたことがある。 「本当に実在したんですね……」 「実在も何も、タクムも行ったじゃない、おじい様のお葬式。って、それよりも一流ちゃんを中に入れてあげないと」  タクムは一流の体を抱き起こす。  思っていたより、軽かった。まるで体の中が空洞のようだ。 「……もしかして、僕のことをこの人に教えたのって、母さんですか?」 「そうだけど? 一流ちゃん、タクムに会いにわざわざ来たみたいだし。本家のお嬢さんに名前を覚えてもらってるなんて、あんたもやるわねぇ」  タクムは無言で、一流を家に運び入れる。  胸のざわめきはよりいっそう強くなっていた。 「わしは、タクムとの約束を確かめるためにやってきた」  居間で正座した一流が言った。  夜。目覚めた一流を交えて三人で食事をした。一流を気遣って純和風の食事で、最初はタクムの件で不機嫌だった一流の表情も多少和らいできていた。 「一流ちゃんと戦って、勝てばお婿さんになれるってこと?」 「正確には、ともに士道を往くということじゃ。それすなわち、めおととなることを言おう。士道を貫くには鍛錬は不可欠。鍛錬を積んでいるかは、剣を交えれば一度でわかる」 「なるほど」  母はうなずくが、タクムは全然なるほどではない。 「大体、いつ僕がそんな約束したって言うんですか」 「さあのう。自分の胸に聞いてみたらどうじゃ?」  すねた様子で、目も合わそうとしていない。すっかり怒らせてしまったらしい。 「うーん。つまり、タクムが一流ちゃんが驚くくらい強かったら、タクムをお婿さんにするってことよね。だったらーーふがふが」  とっさに母の口に大根の切り身を投げ込み、余計なことを言うのをふさいだ。ちゃんと一流の視線が外れていることは確認している。 「まあ、見込み違いだったがのう。あんな卑怯な真似をする男が、強いはずがない」 「むぅ……ならもう用事はすんだんでしょう? 約束したかどうかは覚えてないけど、どっちにしたって僕はそれを果たせていないのだし」  ぐっとにらみつけられた。眼光だけは尋常でない。  が、すぐにそらされてしまった。妙に落ち着きがない。  タクムはそこで、彼女の体が不自然に震えていることに気づいた。妙にそわそわして、体をくねらせている。 「――もしかして、足、しびれてるんですか?」 「ば、ばかなことを申すな! 女といえどこの身は武士のそれよ。正座で足がしびれるはずがなかろう。おぬしと一緒にするな!」 「僕は全然しびれてないですけど」  正座してからまだ五分くらいしか経っていない。  大根を飲み込んだ母がぼんやりと答える。 「うーん。痺れとかって体質にもよるし、武士かどうかは関係ないんじゃないかしら?」 「そ、そんなことはない。たゆまぬ努力と鍛錬の結果、屈強な肉体が作られ、そこに不屈なるもののふの魂が宿る。がんばればサムライになれるのじゃ! 体質などきゃう!」  座布団をとってきてあげようと思って立ち上がった瞬間、一流が悲鳴を上げた。 「おい揺らすな! 響く!」 「あ……ごめん。でも座布団を……」 「いらん! じっとしとれ!」  彼女は涙目になっていた。これ以上触れてもかわいそうな気がしたので、見なかったことにしよう。 「と、とにかく、鍛錬じゃ。鍛錬を積めば魂は宿るーーそうじゃ、そのとおりじゃ」  なぜか、輝いた表情でタクムのほうを向いた。 「たとえばおぬしも、わしが鍛えなおせば少しはマシになるやもしれん」 「え?」 「うむ。そうじゃな。そうしよう。ご婦人、すまぬがしばらく厄介になる」 「あら。うちは構いませんよ。お父さんは単身赴任しちゃって寂しかったところだし」 「ちょ、ちょっと!」 「では決まりじゃな。タクム、翌朝よりおぬしをみっちりしごいてやる。覚悟せよ、わしは甘くはないぞ」  妙なことになった。  台所でコーラを飲みながら、お昼のニュースを眺める。だが、内容が頭に入ってこなかった。  考えてしまうのは、昨日からうちに居候をはじめた奇妙な客人のことだ。タクムを鍛えなおして、婿にするという。  改めて考えればこれは告白と言えなくもない気がする。地味に生きてきたタクムには初めての経験だが、ドキドキするどころかうんざりだ。 「ふぅ」  ため息をつきながら、空になったガラスコップを、部屋の反対側のシンクに向かって放り投げた。  回転をかけたコップはシンクの蛍光灯の紐にまきつき、投げられた勢いを殺す。するすると紐を伝うように落下。シンクに落ちたコップはコンという軽い音をわずかに発しただけで、静かに回転を続け、やがて立ったまま停止した。  ――あ、しまった。  あわてて周囲を見渡すが、誰もいない。ぼんやりとやってしまったが、これだって普通の人間にはとうてい真似できない技だったのだ。  家の中だからって、気を抜いてはいけない。今は一流が一緒にいるのだ。  彼女に自分の力を悟られてはいけない。  幸い、今はまったく気づいていないようだ。なぜか彼女は肉体的な強さイコール精神の強さだと信じている。だからタクムの力にも気づかないでいるのだろうが、逆に言えば力があることに気づけば精神もまた強靭だと思い直す可能性もある。  当たり前だが、本家の婿になるつもりなんて毛頭ない。いくら美人とはいえ昨日今日出会った人間と結婚することなんて考えられないし、そもそもタクムの追い求める普通の生活とは真逆の生き方だ。  そのとき、家中に響く声が聞こえた。 「うわあああああ!」  どたどたとうるさい足音とともに居間へ入ってきたのは、一流だった。身に着けているのは寝巻きに使った長襦袢一枚だけ。しかもかなり着崩れている。分厚い着物を着ていたときはわからなかったが、思った以上にあった。タクムは目のやり場に困り、視線をはずす。  ちょうどテレビかでは時報が流れていた。正午十二時。一流が指定した時間はとっくに経過していた。 「おはよう、ございます」 「ぐっぬーー」  射殺さんばかりに一流はタクムをにらみつけてくる。ちょっと皮肉がすぎたかな、とタクムは内心で反省した。 「ところで獅子堂さん、僕はこれから出かけてきますけど、一人で大丈夫ですか?」 「え、あ、いや、ひとりではちょっと……」  気勢をそがれた一流は目を何度かしばたかせてから、 「い、いや! で、出かけるなどと言って、鍛錬はーーああ、うぅ……」  さすがに今から鍛錬をやるとは言えないようだ。  とにかく伝えるべきことは伝えた。さすがに起きて誰もいないでは可哀想だったので、待っていたのだ。タクムは外に行くためテレビを消した。 「ま、待て。どこへ行く」 「どこってーーとりあえずは食事です。獅子堂さんの分は母が冷蔵庫に入れておいたので、食べてください。昨日の残りですけど」 「あ、そうか。いや、しかし……」  彼女はしばらくもじもじしていた。  やがて意を決したように言う。 「よし。わしも一緒に行くぞ」 「え? 僕とですか? なんで?」 「なぜって、それは……そうじゃ。おぬしがどうしてこんなにも軟弱な精神になってしまったか、鍛える上で知る必要がある。そうじゃ、わしはおぬしと一緒にいる必要があるのじゃ」  みるみるうちに表情に覇気が戻ってきた。 「では着替えてくるぞ。しばし待て」  タクムの答えなど聞かず、寝泊りしている客間へと戻っていってしまった。  ――そうだ。  ひらめいた。彼女に早急に帰ってもらう方法が。  タクムが住む街は特別大きくも小さくもない、よくある地方都市だ。駅にも近く、十分ほど歩けば食事ができる場所はいくつもある。  その中で、タクムはあえてそこを選んだ。 「む。なんじゃここは」  一流は露骨に顔をしかめる。  モスドナルドーー全国チェーンのハンバーガー店だ。 「モッスです。昼はいつもここで食べるんですよ」 「…………はぁ」  まるでゴミをあさる野良犬でも見るかのような目で見られた。正直、心が折れそうになるがこれは必要なことなので、耐える。 「予想通りというかなんというか。かような外来食ばかり食っておっては、精神が腐るのもうなずける。まったく、嘆かわしい」  ひどい偏見だ。  が、確実にタクムへの評価は下がっているようだ。このまま彼女の意にそぐわない行動を見せていけば、そのうち見切りをつけて、あきらめてくれるはずだ。 「獅子堂さんは食べないんですか、ハンバーガーとか」 「食うはずがあるか! わしは生まれてこのかた、舶来品など口にしたことなどない。もののふの魂は、この国の土で育まれたものを食してのみ、はぐくまれるのだ」 「全部国産物を食べてるんですか? 食費とか大変じゃないですか」 「ふん。たいていのものは村の中で採れるわ。山には山菜、沢には岩魚、谷には猪もおる」 「……ほんとに日本ですか、そこ?」 「いちいちうるさいのう! ふん、わしもたまに店でも食べるわい! ああ、あれならわしの村にもあるぞ。里にもあるのじゃな」  彼女がうれしそうに指差した先にあったのは、良野家。最大手の牛丼チェーン店だ。 「……獅子堂さん、良野家で食べたんですか?」 「うむ。なかなかうまいのでひいきにしている。タクムよ、おぬしも食うならああいう店で食わねばならん」 「あー、いや、えっと……良野家の牛肉ってアメリカ産ですよ?」  一瞬、彼女の表情が固まった。 「……や。そ、そんなはずなかろう。良野家って、日本語だし……」 「しばらく前にアメリカ牛が輸入差し止めとかになったって、テレビでよくニュースになったじゃないですか」 「……テレビは時代劇以外は……」  タクムは良野家の店先に出されていたメニューを指差した。 「あ、ほら。メニューにも書かれてますよ。アメリカ産牛肉を使用していまーー」  そこでタクムは息を呑んだ。  一流が泣いてた。 「え! あ、ちょっと、何も泣かなくても……」 「な、泣いてなどおるか! わしはサムライじゃぞ! たかが食い物程度のことで涙を流すはずなかろう!」 「あ、いや……」  周囲を見ると、道行く人たちがこちらを伺っていた。和服美人が臆面もなくむせび泣いていたら、注目も される。 「え、えーっとーーき、気にすることありませんよ! ほら、日本でも外国でも、同じ地球で生まれたもんなんですから。問題は、食べた後にどう行動するかじゃないですか?」 「う、う……そう、か?」 「そ、そうですよ! 獅子堂さん、すごいですよ。僕なんかとても真似できません。えーっと、えっとーー」  タクムは一流の行動を振り返る。  攻撃しようとしてすっ転び、気を失ったり。  正座したらすぐに足がしびれたり。  昼まで寝坊したり。  ――あぁ……。 「……よい。わかっておる」  つぶやくように、一流が言った。ときどきしゃっくりが混じるが、なんとか涙はこらえているようだった。 「わかっておるよ。わしは威勢ばかりで、サムライとして半人前にすらなれていない」 「あ、あのーー」  かける言葉がわからずに戸惑っていると、 「――っ」  一流がはっとした表情になる。  彼女の視線を追うと、黒塗りのベンツが角を曲がってくるのが見えた。ガラスは全面スモークで覆われている、見るからにその筋の人ご愛用の車だ。 「――入るぞ」  言うが早いか、一流はタクムの手を取りモッスの自動ドアをくぐった。  皮肉にも、モッスは純国産キャンペーンを行っていた。肉も野菜もパンスの小麦まで国産にこだわっている。  二人分セットを購入して、店の一番奥の席で向かい合った。 「これなら獅子堂さんも食べられます、よね?」 「……だが外来の料理じゃろう」  むすっとしたまま、力なく答える。 「料理は外国のものでも材料が日本産ならいいじゃないですか。日本の土から生まれたものがサムライの魂を養うんでしたっけ?」 「さっきと言うていることが違うぞ」  変なところだけ覚えている。  一流は、ため息。 「……すまなんだ。見苦しいところを見せてしまった」 「あ、いえ」  驚いた。彼女が素直に謝るなんて。  さっきまでピリピリとしていて張り詰めている感じがした。今は泣きはらした目をしていて、眼光の鋭さが微塵もなくなっている。  それほどショックだったのだろう。  タクムからすれば、無用なこだわりにも見えるのだが、少なくとも本人は本気でやっていた。  彼女は本気で朝練をやろうとしたし、しびれた足で正座を崩そうとしなかったし、和装や口調だって本気だ。  恐ろしいほどに空回りしているだけで。  だが、それはタクムにはない考えだった。  そもそもタクムは空回らない。自分で「できる」と思ったことはたいていできる。人体構造で可能なすべての行動が可能なので、やってみなくてもできる、のだ。逆に言えば、できないと思ったことは絶対にできないので、やることはない。  そんなタクムでも、この子をどうやって慰めればいいかはわからなかった。心は体よりままならない。 「……元気、出してください。ほら、よく言うじゃないですか。敵に勝つには、まず敵をよく知らねばならないって。こういうのを食べるのも、獅子堂さんの力になってくはずですよ」  一流ははっとして、タクムのほうを向いた。  焦点も定まっていなかった目が大きく見開かれ、まっすぐとタクムに向けられる。 「そ、そうかの?」 「え? ええ。そうですよ」 「そうか、そうじゃの!」  一流はハンバーガーを手に取り、大きく口を開いてかぶりついた。  苦し紛れに言った励ましだったが、存外効いたようだった。 「んっ。おお、なかなかいけるのう。まったく、やりおるわい。だが、まだまだわしにはかなわぬな」  いったい、なにを比べているんだろう。タクムは笑いながらその様子を見つめた。  一流は一口食べるたびに、もごもごと何かしら言っている。はみ出たケチャップで口元を汚しても、気づく様子はない。あっという間に平らげてしまった。 「よかったら、僕のも食べますか?」 「お、よいのか? かたじけない」  そういってタクムの分に手を伸ばす。かじりつく直前に、はっとしてタクムをむっと見返した。 「言っておくが、これは敵情調査じゃからな。いわば斥候じゃ。いくさの基本よ」 「わかってますから」  一流は満足そうにほほ笑むと、新たなハンバーガーにかぶりつく。  その笑顔を見て、タクムは自分も笑っていたことに気づいた。  他人と調子を合わせる笑顔とは違う、自分でも気づかないくらい自然に出た笑み。  そういえば、大口でハンバーガーを勢いよく食べる和服美少女なんて目立つ人と一緒にいるのに、まったく気にしていなかった。  食事を終え、店を出る。  満たされたお腹をさすりながら爪楊枝で歯をほじる一流を見ながら、タクムは『武士は食わねど高楊枝』ということわざを思い出す。 「なんじゃ、文句でもあるのか」 「いえ、獅子堂さんの食べっぷりがあまりに見事だったもので」  一流は頬を赤らめて、目線をそらす、 「ふ、ふん。『腹が減ってはいくさはできぬ』と言うじゃろ」  ――なるほど、そういう言い分もあるか。  結局、「武士は本来は食うのか食わないのかわからなかった。 「で、次はどうするんじゃ」 「次は……あそこです」  タクムの指差した先を見て、一流は首をかしげた。  きらびやかなネオン。黒いスモークのかかったガラスで中は見えない。人が出入りするときに中が見えたが、暗くてよく見えなかった。 「ゲーセン……ゲームセンターってやつです」 「ふむ、それならわしも聞いたことあるぞ。フリョーノタマリバ、というやつじゃな。悪漢どもの巣窟と聞く。む、タクム、おぬしそやつらを成敗するつもりか。なかなか見所あるではないか」 「――どこからの情報ですか、それ」  タクムが先導して中に入った。拳を構えたまま、一流もそれに続く。  ドアをくぐった瞬間、膨大な音に包まれた。 「うあ」  短い悲鳴。  振り返ると、一流が転んでいた。緊張していたとこに大音を浴びせかけられて驚いて、配線にでも足を引っ掛けたのだろう。まあ、配線などなくても彼女なら転びそうな気もするが。 「不良なんていませんから、安心してください」 「は?」 「だから、体を楽にしてくださいって」  音に負けないくらい大声で返す。一流もうなずきながら、立ち上がる。落ち着かない様子できょろきょろと見回した。  さまざまな筐体から音と光があふれている。ちなみに人も何人もいるが、一流の言う悪漢の姿は見えない。 「祭りのようじゃのう」  いつの間にか、彼女の表情もほころんできていた。 「ま、とりあえずやりましょう」  手近にあったパンチングマシーンの前についた。コインを入れると、的であるミットが立ち上がった。 「これを殴りつけて、その威力を競うゲームです。って、やってみるのが早いですね」  タクムはグローブを手にはめ、構える。  すべての息を一気に吐き出し、後ろ足を蹴りだした。軸足の踏み込みと蹴り足の威力を腰の回転力にコンマゼロ秒の狂いもなく乗せ、肩、肘、手首の関節に連動させる。衝撃を回転力に、その回転力を更なる直線力に還元し、人体の持ちうる機能を十全に発揮した一撃をーー 「っだあ!」  軸足を、折った。  バランスを崩し筐体に激突する。車に衝突したかのような轟音が、騒音で満たされているはずの屋内に響き渡った。  一瞬、タクムはまったく動けなくなる。呼吸が、止まった。  意識が白くなる直前、ようやく横隔膜が本来の機能を思い出し、息をする。それは激しい咳となった。 「――大丈夫か?」  さすがの一流も心配そうに言った。 「――っはあ、はあ、いや、はい。だ、大丈夫です」  あやうく普通に打ち込んでしまうところだった。そうすればトップファイブの合計スコアすら追い抜いてしまう。いくらなんでもそれはやばい。  スコアを見ると、一〇〇キロ弱。どうにか一般人程度の力に抑えることができていた。 「踏み込みまではよかったが、そこからがいかんのう。しかし妙な癖じゃ。まるで自分から倒れるようなーー」 「獅子堂さんもやってみてはどうですか!」 「わ、わしか……?」  一流は一瞬だけたじろいた。  すぐに鼻息を鳴らす。 「よ、よかろう。おぬしの点数など軽く超えてやるぞ」  ひきつった笑みで、そう言う。  タクムも、ようやく気づいた。彼女も、自分で気づいているのだ。自分のやっていることが空回りしていることを。それでいて、虚勢を張っていた。  彼女が鍛錬と精神にこだわるのも、そのせいか。自分のふがいない体も、努力しつづければサムライのそれになれると信じている。いや、信じようとしている。 「ちょあ !」  一流が、ミットに向かって拳を振り上げる。  そしてさっきのタクムと同じ軌跡をたどり、筐体に激突した。  三十分後。  座席でうつむいていた一流が、ようやく顔を上げた。 「別に、少し休んでいただけじゃからな」 「わ、わかってますよ」  むっつりした一流の目は真っ赤だが、タクムは気づかないふりをする。 「ちょっと獅子堂さんにやらせたいゲームがあるんです」 「……わしはもういい」 「まあ、そう言わずに」  渋る一流の手を引いて強引に引っ張った。と、思ったより抵抗がない。「わわっ」と一流は自分の手をつかむタクムの手を凝視していた。引っ張ると、雲に浮いているようにふわふわと引き寄せられる。  よくわからなかったが、ちょうどよかった。目的のゲームの筐体までそのまま連れてゆく。  ――ん?  ふと、つかんでいる彼女の腕に違和感を覚える。腕の真ん中に古傷があった。ほとんど周囲の肌となじんでいるが、触ると少し盛り上がっているのがわかる。修行で怪我でもしたのだろうか。  やがて目的の場所についた。 「あ、これです。――獅子堂さん? 大丈夫ですか?」  目の前で手を振ると、ようやく一流の焦点が合う。思いっきり飛びのかれた。 「驚かすな!」 「す、すいません」 「むぅ……まあ、よい。で、これがなんじゃ」  一流がゲームの画面をにらみつけた。  3D対戦格闘ゲームだ。リアル差を追求するため、実際に人間の動きを取り込んだと聞いている。タクムもよくプレイしているが、すべての技はタクムでも再現可能――つまり修練さえすれば人間ができる技ばかりだった。  そして何より、このゲームを見せたかったわけ。 「……これは」 「そう、サムライです」  画面の中ではデモプレイが流れているが、両方のキャラクターとも手には得物を持っている。デフォルメされているが、和装に細身の曲刀を構える姿はまさにサムライのそれだった。 「ちょっとやってみますね」  そういって、タクムがプレイした。  いくら常人とはかけ離れた身体能力と反射神経を持っていても、ゲームは別物である。並か、むしろ人よりも劣るくらいだ。だから逆に気を使わなくてすむので、よくプレイしていた。  今回もストーリーモードでやってみたが、中ボスクラスの敵にやられてしまった。 「どうですか?」  振り返ると、一流は夢中で画面の中のキャラの動きを追っている。 「やってみます?」 「い、いいのか?」  タクムがうなずくと同時に、席に着いた。 「操作方法はですね……」 「子細ない。はみこんなら少し触ったことはある」  ハミコンーーなんのことかすぐにはわからなかったが、最初期の家庭用ゲーム機のことだと思い至る。  投槍と拳銃を一緒に扱うくらい無茶だ。 「それに、見ていて大体はわかった」  プレイを開始する。  一流の操作法は初心者のそれにたがわず、ぎこちなかった。ボタンは叩きつけるように押すし、ぎゅっと握ったレバーはガチャガチャとせわしない。  画面の中でも、不用意にジャンプしたり、間合いの外で攻撃を繰り返したりと無駄な動きが多い。  だが、一流の表情は生き生きしていて、タクムは安心した。  現実で叶えられない思いをゲームで発散させる。少しわざとらしい狙いかと思ったが、成功したようだ。  危なっかしいプレイだったが、最初の対戦なので敵のレベルも低く、なんとか倒すことができた。 「ところで、なぜ身の丈を超える跳躍ができるのじゃ?」 「……サムライだからですよ、きっと」 「おお、そうか」  次の対戦が始まった。  先ほどよりも動きが慣れてきた。  動きに無駄が取れてきたし、少しだが必殺技もこなせるようになってきた。ガードが甘く敵の攻撃はもれなく受けたが、まだ二度目の対戦でレベルも低めで、勝利した。 「なあ。なぜ切られてもこの棒が減るだけで、倒れる直前まで普通に動けるのじゃ?」 「……サムライだからですよ。たぶん」 「おお、なるほど」  次の対戦では、一流は連続技を披露した。敵の攻撃にも対応してガードも使えてきている。中級者並の動きだ。序盤の敵のレベルでは敵うはずもなく、楽勝である。 「のう。この切り上げる攻撃のあとに半瞬だけ動きが止まるが、体軸を左にずらせば次の動きに流れることもできるはず。なんであろうか」 「あ……」  それも、先ほどまでの一流の質問と同じ、「ゲームを成立させるための仕様」なのだが、タクムは何もいえなかった。  そこはタクムももどかしさを感じた点だ。自分ならば、一流の指摘したように、さらに連続技につなげることができる。だが普通のプレイヤーは特に不満はないらしい。考えてみれば、強威力の攻撃からさらに連続技に派生してしまってはゲームバランスが崩れてしまう。  彼女はそれを、開始して数分で見抜いた。 『パーフェクト!』  その声に、タクムははっとする。  次の対戦で一流は一度も攻撃を受けずに倒してしまっていた。 「まあ、その動きさえさせなければ、別段問題はないのじゃが」  あとはほとんど圧勝だった。  敵の動きはほとんどカウンターで封じ、そのまま連続技に持っていく。まるで敵の呼吸を把握しているかのような動きだった。  ありえない。タクムも人間相手なら呼吸を読み敵の次の行動を予測することは可能だ。だがまったく仕組みの異なるコンピューター相手にそれができるのは、相当やりこんだゲームの達人か、あるいは超常的な眼を持ったものかのどちらかだ。  ゲームは、最後の敵との対戦になっていた。  かなり強い。タクムも何千円投入してどうにか勝てた相手だ。これほどの敵なら、一流の力も見極めることができるはずだ。  対戦が始まる。  一方的だった。  敵の圧倒的なラッシュに、一流のキャラは身動きひとつできない。サンドバック状態のすえ、あっさり一本取られてしまった。 「……えぇ?」  一流を見ると、彼女はコンソールから手を離していた。ぼんやりと、ボロボロになった自分のキャラを見ている。  立ち上がった。 「ま、なかなかじゃった。だが所詮は戯れにすぎんよ」  一流は静かな笑みを浮かべていた。すべて悟っているかのような、諦めにも似た笑い方だった。  それがタクムにはいたたまれなかった。 「……ごめんなさい」 「なぜ謝る?」 「……いえ」  励まそうと思ってここに連れてきたが、もしかしたら逆効果になってしまったのかもしれない。 「ま、おぬしの気持ちは受け取っておこう。だがわしに必要なのは、つかの間の戯れではない。おぬしもこんなもんばっかやっとらんで、素振りのひとつでもするんじゃな」  タクムは何も言わず、彼女のあとについていった。  と。部屋の一角で騒いでいるのが見えた。  中学生と思しき少年を、数人の高校生が囲んでいる。中学生は大きなメガネをかけた気弱そうな少年で、高校生は軽薄な笑みを浮かべている。  この上なくわかりやすい構図。  ほかの人たちもそれに気づいているようだ。うつむきながらゲームに励むか、そそくさと立ち去っていく。店員さえも目をそらしていた。 「さて、遊んでばかりもいられん。そろそろ戻っておぬしの鍛錬をせねばな」  どうやら一流からは死角になって気づいていないようだった。  なんとなくいやな予感がした。早くこの場を離れたほうがいい。 「そうですね。じゃあ、帰りましょうか」 「む」  歩き出そうとした一流が立ち止まった。 「おぬし、いやに素直じゃの」 「あ、いえ、そんなことは……」 「むん?」  タクムの視線の先を追う。襟首をつかまれた中学生が、財布を高校生たちに渡す瞬間だった。  一流は無言でそちらに向かって歩いていく。  思わず彼女の手をつかんだ。 「ま、待ってください。どうするんですか」 「決まっておろう。離せ」  決意に満ちた声。  ――やっぱり。  予感したとおりになった。タクムはためらうが、はっきりと言う。 「こう言っちゃ悪いですけど、獅子堂さんが出て行っても勝てませんよ」 「わかっとるわ!」  タクムは、彼女の手が震えていたことに気づいた。 「敵うから助けるのか? この腰抜けが。助けたいから助けるのじゃ」  手を、離してしまった。  一流はタクムに背を向け、少年らのほうに近づいてく。  その背中に、見覚えがあった。 「貴様ら、よってたかって若輩者をいたぶるとは、恥を知れ!」  いっせいに一流のほうを振り向いた。四人一瞬だけ、ぽかんとする。だが、すぐにいやらしい笑みを浮かべた。 「注意されちゃったよ」 「キミ、すごいね。普通無視するっしょ。この状況」  口先だけは賞賛を与えているようだが、にやけた表情は別のことを物語っていた。  その瞬間、中学生が転げるように駆け出し、高校生の輪を突破する。 「あ、テメ」  ひとりが手を伸ばしかけるが、やめた。あっという間に中学生の背中は見えなくなった。 「おいおい、お嬢ちゃんのおかげでカモ君に逃げられちゃったよ」 「これはもう、責任取ってもらうしかないっしょ」  一人が、一流のほうに手を伸ばそうとする。 「あのー、すいません」  タクムが、その間に割って入った。  背中で一流を押し戻しつつ、最大限の苦笑を浮かべ、少年たちに向かって頭を下げた。 「どうも僕の友人がご迷惑をかけて、申し訳ありませんでした。ちょっと空気読めない子なんですよ。ははは」 「な、タクム、おぬし」 「どうぞ、ここは穏便に。お詫びはこのとおりですので」  頭を下げたまま、財布ごと差し出す。  少年の一人がそれを奪い取って、中身を確認した。ちっ、と舌打ち。 「三千円で詫び入れようなんて、ずいぶん反省してるんだねえ?」 「すいません。それが精一杯でしてーー」 「大体謝るにしても、頭が高いんじゃないの? ズガタカーァイ」  その言葉に少年たちは笑った。どうやら一流の格好が時代劇を連想させたらしい。 「この、貴様らーー」 「これで、お願いします」  一流の言葉をさえぎり、タクムは土下座する。  すぐに、頭の上に衝撃がきた。  一人が足で踏みつけ、体重をかけているのだろう。 「ひかえおろー、ってか?」  また、笑う。 「このっ」  一流の声がはじける。気配で察するに、タクムを踏みつけている少年に殴りかかったようだ。  が、すぐに別の少年が取り押さえる。 「お嬢ちゃんは、『あーれー』でしょ?」 「離せ!」  バチン、と鋭い音。  一流が頬を張られた音だった。 「おぉ、お前もワルじゃーーあ」  タクムの頭を踏んでいる少年が、頭から地面に落ちる。後頭部から固い床に激突し、動かなくなった。 「あー、ダメだとは思ってましたけど、やっぱりこうなっちゃうんですね」  踏まれていた頭のほこりを払いながら、タクムが立ち上がった。表情は苦笑したままで先ほどと同じに見えるが、呼吸が変わっている。  一流を羽交い絞めにしていた少年も、彼女の髪を乱暴につかんでいた彼も、そして鼻血を流していた一流も、あっけにとられた表情でタクムのほうを見ていた。 「てめえ、なに勝手に立ってーー」  一人が叫びながらタクムの襟首につかみかかる。その手を逆に襟の生地で巻き込み、体のしなりだけで受け流し、彼の体を宙で反転させた。 「がっ」  受身も取れず、やはり頭から落ちて動かなくなる。 「野郎!」  別の少年が、取り出したナイフをちらつかせた。  ――及び腰。劣勢だと知って、反射的に取り出しただけ。刃物を向ける覚悟もない。  冷静にそう判断し、あえて無造作に彼の手にしたナイフのほうに向かう。 「ひっ」  とっさに彼がナイフを引いた。瞬間、顎の下に横から掌底を打ち込む。同時に懐に入り込み、顎を下から突き上げた。  脳を揺さぶられた彼は、そのまま床に昏倒する。  倒れる瞬間、彼の手からナイフを奪い取り、刃を閉まった上で後ろに向かって投げた。 「ごっ」  数メートル先で、逃げようとしていた少年が倒れる。一流を拘束していた彼だ。後頭部に鉄の塊をぶつけられ、やはり脳震盪で気を失った。  全員に頭部の打撃を与えたのは、できれば自分たちのことを忘れてほしかったからだ。衝撃は残さないように打ち抜いたから大きな怪我などもないだろう。  ――だけど、こっちはどうしようか。  一流はその場にへたり込み、うつむいていた。気が抜けたのだろう。飛び出していったときの勢いは消えている。 「……すいません、本当は僕、強かったんです。ただ、いろいろあって隠していたくて、黙ってました」  本当はさっさとこの場を逃げ出したかった。周囲がざわめき始めていた。一瞬で不良全員を倒すなんて、注目されるに余りある。  だが、すぐに確認しなければいけないことがあった。 「あの、ひとつだけ訊いていいですか。僕が獅子堂さんと約束をしたのって、もしかして十年前の本家でーー」 「貴様は」  鋭利な刃よりも冷たい声だった。 「助けられる力がありながら、見過ごそうとしていたのか」  言葉が心臓に突き刺さる。  一流が立ち上がる。  目が合った。  タクムをにらむことも、涙をこらえることもしていない。  ただ、静かに泣いていた。 「もういい。見込み違いだった。貴様のような腐りきった男が、サムライであるはずがない」  一人残されたタクムは、ただ呆然となる。  結局、タクム自身が望んだ結果になった。  だが、胸には大きな空洞が、鈍い痛みを伴って空いていた。  独りで、日の落ちた道をとぼとぼと帰宅する。  家のドアを開けると、一流がいた。  電話の受話器を置いた瞬間だった。一瞬タクムはどきりとするが、向こうは何事もなかったかのように居間に戻った。  中から声が聞こえる。 「ご婦人、お電話、ありがとうございました。今迎えが来ます。短い間でしたが世話になりました」 「あら、こちらこそ大したお構いもできずにすいません。せっかくきたんだから、もうちょっとゆっくりしていけばよかったのに」 「いえ。もう用事は済みましたので」  タクムも靴を脱ぎ捨て、居間に駆け込んだ。 「獅子堂さん!」  が、一流はタクムの横をすり抜けて玄関に向かう。手には二振りの刀と、少ない荷物が提げられていた。 「待ってください。僕はーー」  完璧に無視し、一流は草履を履き玄関を出た。 「獅子堂さん!」  靴も履かずに追いかける。  一流は道に出るところだ。  彼女の手をつかもうとした、瞬間――  けたたましいブレーキ音が連鎖する。  道路の真ん中に立つ一流の周囲に、黒塗りのベンツが四台、道をふさぐように停車した。  全車両、すべての窓がスモークがかかっている。  車のドアが、いっせいに開かれた。  予想通り、中からはいかつい黒服の男たちが現れる。全員から、一般人とは異なる威圧感が放たれていた。 「お嬢様、お疲れ様です!」  男たちは一分の乱れもなく、一流に向かって頭を下げる。地面に平行になるまで頭を下げ、そのまま静止し微動だにしない。  一流はそれすら意に介する様子なく、車に乗り込んだ。 「まっーー」  タクムが手を伸ばしかけた瞬間、体が浮いた。そのまま車のボンネットに体を叩きつけられる。 「なんじゃコラァ!」  耳元で怒鳴られる。男の一人が、タクムの体を封じたのだ。伸ばしていた腕は背中にねじこめられ、関節が外れる寸前まで圧迫される。  タクムの中に、激しい怒りが生まれた。  ――邪魔するな。お前は優位にいるつもりだろうがこんなの抜けるの簡単だ。逆にお前の腕を外してやろうか。そうだ、別にためらう必要ない。簡単だ。ほら、こうやってーー  タクムが動こうとした瞬間、体が、軽くなった。  とっさに振り返ると、タクムを抑えていたはずの男が壁にもたれていた。が、違うとすぐに気づく。男は壁に叩きつけられ、気を失っていたのだ。 「すまぬ。うちのものが、出すぎたことをした」  それはただ巨大な塊に見えた。  声はタクムのはるか頭上から。見上げるほどの巨躯は、獣のそれだ。全身は黒茶けた剛毛が覆い、口腔は前に突き出ている。一応は袴姿でいるが、冗談にしか見えない。  一言で言ってしまえば、和装したツキノワグマが立っていた。 「な……」  タクムは自分の体が動かないことに気づいた。ただ震えるばかりで、言うことを聞かない。氷を呑んだかのように、腹の芯から冷気が全身に広がっている。  クマの目のせいだ。  見つめられるだけで、震えが大きくなる。拒否しようとしても動けない。 「須藤殿も勘弁してやってくれ」  クマが言った。  このクマの正体が、ただの着ぐるみか、突然変異の新生命体かはわからない。  だが、ただ者ではない。  彼は、わかったのだ。タクムが自分を押さえつけていた男を反撃しようとしていたことを。 「金剛寺組若頭、森野阿武隈という。クマと呼んでくれていい。一流殿の祖父、左馬介殿と縁があり、跡取りである一流殿の後見人を務めている」  腹の底からたたき出された野太い声だ。 「あ、う」  それにも、タクムは答えることはできない。 「一流殿が世話になったようで、礼を言う。須藤殿も一流殿と縁ある様子。よろしければ、ぜひ我らの式にも出てくれ」 「し……き?」 「結婚式だ」  タクムの中で、何かが脈打った。 「日取りは明日。場所は獅子堂家本宅。一流殿に懇意とあれば、歓迎するぞ」  クマはそういい残して車に乗り、タクムの視界から消える。  タクムは力が抜け、その場にへたれこんだ。  ――ああ、そうか。  ベンツがすべて走り去ったあと、ようやくそれを思い出した。  自分では絶対にかなわないモノを前にしたときの、本能からくる衝動。  恐怖だ。  タクムが初めて挫折を味わったのは、五歳の夏だった。  葬儀のため本家に来ていたタクムは、暇をもてあまして近くを散策していた。当時は恐いもの知らずで、生意気なガキだった。  そして、森の中で野犬に出会った。  巨大な犬だった。飢えてるようで、妙に粘っこいよだれを垂れ流していた。子どもからすれば。十分すぎるほどの脅威だった。  襲われた。数秒で組み伏せられた。  暴れた。叫んだ。それでもどうにもならなかった。何をやっても無駄だと悟ったとき、全身から力が抜けた。  そのときだ。  空から彼が落ちてきたのだ。  タクムと同じくらいの子だった。黒い、時代劇で見るような和服を着て、短い髪を頭の上で結わえていた。タクムのもとに飛来し、のしかかっていた野犬を蹴り飛ばした。  あとから考えれば木の上から飛び降りたのだろうが、そのときのタクムは颯爽とジャンプする変身ヒーローを思った。 「子細ないか」  その子が、野犬とタクムの間に立ちはだかった。 「さがれ。こやつはわしが倒す」 「倒すって、無理だよ!」  自分でさえ敵わなかった。きっと大人でもてこずるに違いない。それを、同じ子どもがどうこうできるとは思えない。 「黙れ!」  一喝された。 「それでも、わしはやらねばならぬのだ!」  泣き声だった。  彼も、きっとわかっているのだ。とても敵わないことを。それでも、何かしらの理由のために立ち向かわなければならない。 「わしは、サムライじゃ」  言うと同時に、犬に向かって突進した。 「ふがっ」  次の瞬間、足がもつれてて転んでしまう。ちょうど、犬の前に頭を差し出すように。  その首めがけて、犬が顎を開いた。鋭利な刃がずらりと並んでいる。 「うーーがっ!」  彼が叫び、犬の牙の間に自分の拳を突っ込んだ。腕の半分まで突っ込む。  腕が食いちぎられる、とタクムは思った。しかし、犬の首の動きはそれで固定され、逆に牙の攻撃を防いでいることにも気づいた。  だが、そのまま犬にのしかかられ、彼自身も身動き取れない。開いたほうの腕で犬の体を打ちつけたりするが、まったく効果はない。  逆に犬の前足の爪を受ける。彼の服は破れ、血が飛び散った。  ――やっぱり、ダメだ。  タクムがそう思った瞬間、体が動いていた。  彼の顔めがけて振り下ろされようとしていた犬の前足に、飛びついた。  つかんだ犬の筋肉は、鉄のように硬かった。こんなものと彼は一人で立ち向かっていたのだ。  しがみついたタクムの重みで、犬の上体が沈んだ。 「があああ!」  彼が、獣のような唸りを上げ犬の首元に噛み付く。  これには、犬も悲鳴を上げる。首をのけぞらせた瞬間、彼の腕も離した。  タクムの体も振り払い、そのまま犬は森の奥へと逃げていった。  タクムは地面に転がりながら、遠ざかっていく足音を聞く。それが聞こえなくなるのと入れ替わりに、何か空気の抜ける音が聞こえてきた。  だんだんとそれは大きくなり、 「……は、はっは、あっはっは、あはははは!」  彼の笑い声だと気づいた。 「勝った! 勝ってやったぞ!」  それを聞いて、タクムの体から緊張が解けた。  勝ったのだ。  子どもなんかじゃ絶対に勝てないはずの敵に。彼は、ボロボロになりながらも勝ってのけたのだ。 「……すごい」  思わずこぼれた言葉だった。 「すごいよ、君!」 「すごい? わしが、か?」  彼が体を起こす。改めてみると、全身埃まみれで、着ている服は引き裂かれ、牙の間に突っ込んだ左腕はえぐれて赤い血があふれてきている。  それでも、犬の毛にまみれた口を開いて、笑っていた。 「すごいよ! かっこいい! いったいどうしてそんなことがーー」  それはタクムの心からの賞賛だった。 「どうしてって、それは……わしがサムライだからじゃ」 「サムライ? そうなの?」 「ああ」  彼は照れくさそうに鼻をすする。  タクムの胸に、ある思いがよぎる。 「――僕もなれるかな」  素直な気持ちだった。サムライというものがよくわかってもいなかったが、彼のようなヒーローになれる。そう考えたら、うれしくなった。 「なに、おぬしもなれるさ。この勝利は半分はおぬしのものでもある。見込みはあるぞ」 「本当に?」 「おうよ。たしか、分家の者だったな。分家の出であろうと、サムライにはなれる。互いに励もう。約束じゃぞ」 「うん」  彼の言うことは難しい言葉が多く半分も理解できなかったが、うなずいた。 「そのときは、めおとになってやっても、よいぞ」 「ん? うん」  そして十一年後。  約束を守り続けた彼――もとい、彼女は、タクムの元にやってきて、裏切られたことを知った。  タクムは、目を覚ます。  朝だ。  よく覚えていないが、昔の夢を見ていた気がする。  もう約束は思い出していた。どう思い返しても、約束した相手は男の子だと認識できたが、子どものころは男女の違いなんてわからない。  軽く頭を振って、枕もとの眼鏡を手に取る。  伊達眼鏡だ。眼鏡をしているほうが、気弱そうに見えるようで、小学校のときから身に着けている。  あれからタクムなりに、サムライに近づくために行動しようとはしていた。  挫折は、わりとすぐだった。  当時通っていた幼稚園でいじめられていた子がいた。集団に小突かれるとか、そういう内容だったと思う。  タクムはそれを、実力を持って正した。  結果、いじめっ子の一人は右腕を骨折。二人は前歯を折る。助けたつもりのいじめられっこは、タクムから一方的に攻撃してきたと証言。  そこから先は、いまだに思い出せない。卒園式の写真がなかったり、小学校と幼稚園の同級生の顔が一致しなかったりするので、おそらく別の小学校に通うことになったのだろう。  気づいたら、今のタクムになっていた。  他人より抜きんでてはいけない。出る杭は打たれる。人間はシマウマのように、みんなに溶け込んでいなければ生きられない。  たとえ自分が本当はトラであったとしても、だ。  だが、彼女はそれでもあきらめていなかった。  挫折したタクムだからこそ、彼女の苦労はわかった。いや、それ以上かもしれない。  人より異質でいることは難しい。  彼女はそれでもあきらめずに、タクムとの約束を守り通した。そして昨日、裏切られたのだ。  ――もういいだろ。  もう関係ない。約束したとはいえ子どものころだ。律儀に守り続けるほうがどうかしている。別に自分が負い目を感じる必要なんて、これっぽっちもない。だいたいサムライになるだなんて、どうかしてる。  ――そんなことは、わかってる。  一流の泣き顔が、目に焼きついて離れなかった。  そんな馬鹿げた約束を、彼女は守っていた。タクムの言い分など、彼女の前ではすべて言い訳にしかすぎない。  タクムが居間に行くと、母がテレビを見ながらミカンを食べていた。 「ああ、タクム、おはよう」 「うん」 「早いね。まだ七時前だよ」  時計を見るとそのとおりだったが、頭がはっきりしないせいか、現実感がない。昼過ぎだと言われても、ああそうかとしか思えなかった。 「でも本家に行くなら、そろそろ出ないと」  母が、唐突にそんなことを言った。 「え? な、なんで……」 「昨日クマみたいな人に言われてたじゃない。一流ちゃんとの結婚式があるって。行くのかと思ってたけど」 「……そんな。ほとんど初めて出会ったような人ですよ」 「そう? ならいいけど。行きたいなら、我慢しなくてもいいのになー、と思っただけで」  なぜか、心臓がはねた気がした。 「タクム、いつも自分を押さえ込もうとしてるよね。昔のほうが母さんは好きだったな。そりゃ生意気な小僧でしたけどね」 「昔って……それは幼稚園とかのことでしょう? そりゃ今とは違いますよ」 「でも子どもに敬語使われるのって、けっこう悲しいよ?」  タクムは何も言えなくなった。  誰に対しても敬語になってしまうのも、気づいたら身についていた癖だ。敬語で話せば、人と距離を保てる。角が立つことがない。 「ごめんね」 「な、なんで母さんが謝るん――ですか?」 「悪いと思ってるから。一応、親ですから。そんな風に育てちゃった責任もあるからね。謝っても仕方ないから黙ってたけど。  でもタクムは、謝ったほうがいいんじゃない?」  一流の泣き顔が稲妻のように脳裏をよぎる。  自分にできることはできるし、できないことはできない。  ――謝ることは、できる。  山奥にある本家まで、電車とバスを五本乗り継いで四時間の道のりだった。  あたりはもう日が傾きかけていた。時間的にはまだ早いが、山に囲まれているので薄暗い。  タクムは茂みの中から、その屋敷を観察する。  正面は寺の山門くらいに大きな門があり、周囲を白壁で囲っている。壁から上からは、瓦葺の屋根がそびえているえた。  今は壁には花輪がところ狭しと並べられていた。なんとか会とか、なんとか組とか、その筋の人たちと思しき名前が連なっていた。  自宅で結婚式をやれるというのだけで、相当なものだ。そこいらの学校よりも大きな敷地があるだろう。  一言でいえば、大名のお屋敷だ。もともと、それに近い家系ではあるのだが。  屋敷の前には何台ものベンツが駐車している。中からはその業界のお歴々と思われるご老人や付き人が屋敷に入ってきていた。  ――会えるだろうか。  本家までくれば何とかなると思っていたが、よく考えてみれば相手は世が世ならお姫様だったかもしれない人だ。しかも今は、広域暴力団指定組織の次期代表との結婚式を控える状況である。  ――とりあえず、行くしかないか。  このまま帰るくらいなら、最初から来ちゃいない。茂みから出て、いちばん近くにいて、来客を見守っていた男にめぼしをつけた。 「あの、すいません」 「あん?」  男が振り返る。  彼は、昨晩タクムを押さえつけ、クマに殴られた男だった。頬の包帯が生々しい。  手に黒光りする独特の形状のものを持っていた。それなりの重量があるらしく、両手で抱えるように持っている。  自動小銃だった。 「出入りだ!」  男が叫ぶ。と同時に、銃口をタクムのほうに動かした。  反射的に体が動き、男の鳩尾に肘を打ち込み、顎を掌底で突き上げた。 「がっ」  男の意識が吹っ飛ぶ。  その背中越しに、様子に気づいたほかの男たちがこちらに駆け寄ってくるのが見えた。  手に、黒い飛び道具を握って。 「――っ」  タクムは今倒した男の体を担ぎ、そのまま茂みに向かって走る。 「撃て!」 「ダメです、野郎、ヤスを人質に!」 「卑怯な!」  ――どっちが!  茂みに飛び込む。適当なところで男の体を捨てると、木々の間をサルのように移動する。  屋敷の側面に回りこみ、木の上から直接壁の上に飛び移り、そのまま屋敷の屋根に跳躍した。  音もなく瓦の上に着地する。すぐに伏せ、耳をすませる。  門のほうから騒ぎが波及しているようだ。幸い屋根に飛び乗ったことは気づかれていないようだが、殺せだのなんだのと物騒な言葉も混じっている。  離れのお嬢様を守れ。  そんな声が聞こえた。  ――離れ。  屋根の頂上まで移動し、周囲を一望した。  案の定、かなり広い庭だ。池つきの庭園まであった。  その池のほとりに、質素ながら落ち着いた趣の家屋が見えた。そして、そこに向かって走っていく数人の組員も。  家屋の戸が、中から開かれた。  タクムの体が、こわばる。  戸口からは胸から下しか見えないが、あの鋭利な爪の伸びた獣の手は、間違いない。  クマだ。  タクムはぎゅっと拳を握り、体の震えを止めようとする。  ――できることはできるし、できないことはできない。  それは人体を完璧に扱うことができるからこそわかる、自分の絶対的な限界。  タクムでは、あのクマには勝つことはできない。  ――それでも。  タクムは、立ち上がった。  物音ひとつ立てず、タクムは池の小屋の上に到着した。 「なにかありましたか」  一流の声だ。 「なんでもない」  クマが答える。タクムは、小屋から離れていく男たちの姿を横目で確認した。 「むしろ、なにかあったのは一流殿のほうではないですか」 「私は、別に……」 「別に何もなく、結婚直前に行方をくらますのですか」  一流は押し黙る。  ぽつりぽつりと、つぶやくように言った。 「タクムは、私の始まりでした。私は、一度も祖父に褒められたことがなかった。当たり前ですが。唯一の跡取りが私などで、祖父はたいそう嘆いておりました。臨終の間際、獅子堂家は自分で終える、私には何もさせるなと、言い残しておいたようです」 「それは、あなたの身を思ってのことではないか。別の道を進めとの」 「――わかっています。最初は、喜んだ。もう叱られることもないし、苦しい思いをしなくてもいい。しかしすぐに途方に暮れました。私にはほかに何もなかったのです。私にはサムライとしての挟持しかなかった。続けろと言われたほうがまだ楽だった。私には何もなくなった。  そこで、タクムと出会いました。  彼は、私を褒めてくれた。かっこいいと言ってくれた。道を、示してくれたのです。この空のどこかで、自分と同じ道を歩いてくれている人がいる。そう思うだけで、がんばれました」  どきりとした。  まさか。  自分の言葉だけで、彼女の生き方を決めてしまっていたなんて。 「だが、結局は独りよがりだったようだ。タクムは約束など覚えてはいなかった。考えてみれば、当然のことです。子どものときの約束など、守るほうがどうかしている。馬鹿なことを、しました」 「そして裏切られ、私のような男と添い遂げようーーというわけか」 「なっ」  一流が叫んだ。 「そ、そんなこと! 私は、クマ殿を尊敬しております。祖父からもよくあなたの生きた武勇伝を聞かされました。仲間を救うため、敵の陣地へと単身乗り込んだ、と。サムライとは違えど、任侠道を貫くあなたとともになれるなど、幸せ以外の何物でもありません」 「一流殿にとって、サムライとは、武士道とはなんですか」  唐突な問いだった。  一流も一瞬息を呑むが、すぐに落ち着いた声で答えた。 「強さです」 「強ければ、サムライと?」 「強さとは、義を貫く力です。義のない力などただの暴力ですから。そして、力を行使した結果を背負う覚悟です。その二つを持つものがサムライだと私は思います」 「それならば、俺はサムライではない」  突き放す、冷たい声だった。 「私はやくざ者だ。そして獣だ。守るものは、義ではなく組。この牙と爪で殺すことでしか守れぬ。味方を守るため敵を殺し、いつかは味方も殺す。そういう生き方しかもうできなくなってしまった」 「それはーー」 「あなたには幸せになってもらいたいとは思う。そのために俺にできることならやろう。だが、俺の牙はいつかあなたをも傷つけるよ。人と獣の道は違う」  小さく、一流がうなった気がした。 「あなたが俺に何を思うかは構わないが、それは覚悟していただく。  それに、まだ戻れる。叶わぬ望みを掲げ続ければ、いつかその身を獣の肉で覆わねばならなくなる。俺のように。一流殿がそこまでなる必要はない」  少しの間があった。 「このふがいない体でよければ、噛み砕いてくれようが構いません。獣の体になれるというのなら、それこそ望むところだ」  クマが息を吐く。 「あなたは昔の俺に似ているよ」 「え? 今、なんと?」 「……いや、なんでもない。先に出ている。血の道を往く覚悟があるなら、待っている」  戸が引かれる音。クマが立ち去ろうとしていた。 「そう。須藤タクム殿がこの屋敷にきたようだ」 「なっ!」  今まででいちばん大きい一流の声だった。 「なぜ、タクムが!」 「思惑はわからん。だが、こちらの人間に損害も出ている。ただでは帰せぬが――構わぬな?」 「なぜ、私に聞くのです」 「そうだったな。では、また」  戸が閉じられる。  クマが母屋のほうに戻っていった。  それを確認して、タクムは屋根の下に飛び降りる。  池に面したの縁側に、うつろな目をした一流が座っていた。  突然目の前に落ちてきた人影に目を見開く。口を開く前に接近し、タクムは手でふさいだ。 「んんんんーっ!」 「僕です。須藤タクムです」  一流は二度三度とまばたきする。こわばっていた体から次第に力が抜けていった。 「あまり大声を出さないでください。人が来ます」  一流の口から手を離す。  ぷはっ、と息を吐き出す。二度三度と息をしてから、タクムをにらみつけてきた。  改めてみると、一流は白無垢姿だった。これから式だというのなら当然だろうが、一瞬で心拍数が上がるほど綺麗だった。 「――なぜ来た?」  怒気をはらんだその声で、タクムも我に返る。 「あ、はい。謝りにきたんです。約束守れなかったこと、ちゃんと謝ってなかったですから……」 「ふん、そんなことーー謝られたところで、何が変わるというのじゃ。それで貴様の心根が正されるとでも言うのか。馬鹿らしい」 「そうは言いません。ただ、申し訳ないと思ってます。すいませんでした」  頭を下げる。  しばらく一流はそれを見つめていたが、深いため息をついた。 「そんなことをしに、こんなところへわざわざ来たのか? とんだうつけじゃな。いっぺん死んでみろ」 「……ごめんなさい」 「あああ! もうわかったから、頭を上げろ。」 「……すいません」  顔を上げると、バツの悪そうな顔をしていた。別に一流のほうが困ることはないと思うのだが。 「あと、もうひとつ謝ります」 「今度はなんじゃ」 「さっき、話を聞いてしまいました」  目を丸くした。次に、顔が赤くなっていく。 「そ、それで……?」 「――結婚とか、やめにはできないんですか?」  歯をかみ締めながら、うつむく。 「それは、もはやどうしようもならぬ」 「本当にそうなんですか?」  一流は怪訝な表情を浮かべる。 「何が言いたい」 「今からでも、普通の生活に戻ることはできないんですか? 昨日一日しか僕は一流さんとすごしていません。それでも、無理してるように感じた。この先ずっとそんなことを続けるよりもーー」 「うるさい!」  叫んで、自分の声にはっとする。周囲を見回すが、人の気配は感じない。 「そんなことを言うために、わざわざ来たのか」  小声で言ってくる。 「余計なお世話だ。おぬしにそんなことを言われる筋合いはない」 「そうですね。いえ、そうでした。さっきの話を聞くまでは」 「…………」 「一流さんのサムライへのこだわりが、僕が原因だったなんて聞いたら放ってはおけません。これは謝りようがないけれど……でも、まだ一流さんに道があるのはたしかです」 「その約束を忘れておきながら、よく言う」 「その約束だってーー一流さんは、僕がもし約束を守っていたらどうするつもりだったんですか。僕と、その……結婚する、とか言ってましたけど。もう婚約者はいるんでしょう?」 「それは……」 「僕の予想ですが、一流さんは本当は結婚なんかしたくないんだ。だから僕の約束をあてにして、この婚約を破棄しようと思った」 「違う」 「なら、なぜ僕なんかに」 「そんなこと、わしが知るか!」  大きな声にタクムは再び周囲を見る。が、一流はそれに気づかず、続けた。 「なぜ、おぬしなんぞに……性根も腐りきったような男にどうして……どうして、おぬしでなければならんのだ」 「一流さん……」 「いつもそうだ。わしが望むものは、何も手に入らない。わしはこの体が憎い。何事もなすことのできない、ただの肉の塊だ。それでも、心だけは武士のものであろうと努めたのだ。なのに、その心まで、わしを裏切るのか!」  彼女の全力の叫びが、響き渡る。  数人の足音が近づいてくるのを聞いて、タクムは身をこわばらせた。  逃げなくてはならない。いくらタクムでも銃で集中砲火されては避けられない。  だが、このまま一流を放っておいていいのか。ここで別れれば、おそらくもう二度と会えないと感じた。 「ああ、もう!」  タクムは一流の体を抱きかかえると、小屋から庭のほうへと躍り出る。 「なんだ!」 「あ、やつだ!」  そのまま屋敷の外まで出るつもりだったが、人一人抱えると動きも鈍る。手近な庭石の陰に隠れるのが精一杯だった。  銃弾が岩肌を掠め、鋭い音を立てる。  銃声に混じって、次々と足音が集まってくるのも聞こえた。 「……なぜわしをつれてきた」 「なぜって」  タクムは一流を見る。  静かに涙を流していた。  こんな姿のまま放っておけるようなら、ゲームセンターで不良に絡んでいった時点で見捨てている。 「僕は、普通に生きようと思ってました。でも、ヤクザの嫁になりそうな子から助け求められたのに、見捨ててしまったなんてしたら、普通になんて生きていられませんよ」 「助けなど、誰も頼んではおらぬ」 「頼んできたようなものですよ。とにかく、僕はあなたを助けて、さっさと普通の生活に戻ります。今日だけは、特別ですから」  岩の向こうに動きがあった。  ひときわ大きい、人のものとは明らかに違う足音が近づいてくる。 「やめろ。一流殿もいる」  クマの野太い声に止められ、銃声がやんだ。  タクムは息を整える。  勝負のときだ。  もう一度、一流を見る。  涙をこらえ、ぐっと歯をかみ締めてうつむいている。そのくせ震えた手でタクムの服の裾をつまんでいた。 「片付けてきます。預かっててください」  小さく言って、眼鏡を外して彼女にわたす。そして岩の向こうに向かって声を上げる。 「決闘を申し込みます!」  タクムは岩の上に躍り出る。  銃撃はこなかった。数名の黒服はみな、クマの後ろに下がり、タクムを見上げている。 「決闘? 俺とか?」  クマがたずねた。 「はい。僕が勝てば、見逃してほしい。負けたら、あなたの好きにしていいです」 「取引は普通、見返りがあって成立すると思うがな」 「さっき、あなたの組の一人を隠しました。その居所を教えるというのは?」  最初に声をかけた男のことだ。ちゃんと隠したわけでもないが、言うだけ言ってみた。 「ふん」  クマは鼻を鳴らす。そして、傍らに控えていた男から巨大な刀を受け取った。 「まあ、いい。馬鹿は好きだ。ヤクザから花嫁を奪うなんて、よくやる」  そしてもう一本の刀をタクムに向けて投げた。  それをタクムは受け取る。 「言っておくが、俺は強いぞ」 「見ればわかります」  刀を、抜いた。  本物の日本刀を手にするのは初めてだ。が、柄の握りと刀身の重みが、その能力と技術と限界をタクムに伝える。  振るう。  タクムの足元の岩が、横一線に両断された。 「行きます」  一気にクマに肉薄する。  クマは鞘を引き抜き、捨てる。  三メートルを超える段平だ。重さだけで相当なものだろう。常人には抱えるだけで精一杯だ。  それをクマは片手で掲げ、タクムに向かって振り下ろした。  刃が、地面を吹き飛ばす。  爆音が遅れて聞こえた。早すぎて、視覚と音にずれが生じている。  タクムはそれを、捌く。  刀のしのぎで受け流した。まさに人間の可能速度の限界ギリギリだった。  二つの鋼がこすれあい、火花になる。 「――ぐっ」  思わずうめきがもれる。衝撃は完全に流しきれなかった。  まだ恐怖を捨て切れていないため、体がちゃんと動かない。  ――このっ。  さらに踏み込み、クマの胴を薙ぐ。  クマも段平でこれを防ぐ。と、同時に切り返してきた。  一息で、三つの斬撃を繰り出す。超重量級の攻撃なのに恐るべき速度。そのすべてをタクムは裁ききるが、衝撃は体に響く。 「ぐっ」  衝撃を流し損ない、体勢を崩す。  その隙をクマが見逃すわけはない。 「終いだ」  上段から、振り下ろされる。  ――まずい。  気は急くが、体が動かない。ここにきて完全に恐怖で飲まれている。  その一瞬。 「左だ!」  とっさにタクムはその声に従い、左へと転がった。 「横に!」  右手が動き、横に斬る。切っ先が、クマのわき腹を薙ぐ。生き物とは違う弾力と、硬質な感触。裂け目からは血は流れず、肉のかわりに鋼の骨材が見えた。 「跳べ!」  右足で地面を蹴る。と同時に、 「刃を」  立てる。そこに、クマが横薙ぎに追撃してきた。  刀は飴のようにへし曲がった。が、タクムは斬られる方向に飛んでいたため、吹き飛ばされただけで無事だ。  着地し、離れた箇所から改めてクマを見た。  右のわき腹が裂け、切断された黒いワイヤが覗いていた。クマが確かめるように右腕を上げる。が、肩から上には詰まったようにあがらなくなっていた。 「あなた、機械ですか」 「いかにも。パワードスーツというやつだ。アメリカ製の最新鋭装備に手を加えている」  さらりと答えられる。 「卑怯だ、と思うか? 別に構わんよ。さっきも言っただろう、俺は組のためにならどんな手でも使う。刃物も銃器も爆薬も耐えながら、人間をはるかに凌駕する動きをするこんなものを使ってでも」 「気づいてたんですか、僕のこと」 「もちろん。センサー類も優秀でね」  タクムはL字形になってしまった刀を投げ捨て、素手のまま腰を落とした。 「……別に、卑怯だなんて思ってません。それはお互い様ですし」  クマの向こう。木の幹によじ登りこちらをにらむ一流を見る。一動作すら見逃すまいと、瞬きひとつしていない。  できないことをやるためには、手段を変えるしかない。  クマは、そのために獣の機械をまとった。  そしてタクムは、コンピューターの呼吸すら見抜く目を持つ少女の協力を得る。 「一流殿。それが、あなたの答えなんですね」 「――ぐっ。わ、わからん! じゃが、タクムが死ぬのは、いやじゃ」 「一流さん」 「勘違いするな。今だけじゃ。そ、そう。おぬしにはちゃんと約束を守ってもらわねばならん。そのためにこんなところで死んでもらっては困るのじゃ」 「いいでしょう」  クマが言った。獣の表情はわからないが、タクムにはそれがなぜか笑っているように見えた。  クマは段平を左手に持ち換える。その場で振りぬいた。竜巻のような旋風が吹き荒れる。 「一流殿の声と、この音より速い斬撃。須藤殿の体術と、この機械仕掛けの獣の体。人の道を捨てた獣とおぬしら、どちらが勝るか、果たしあおう」  四合。  それが、刀を失ったタクムが、クマの体に届くまでに裁かなければならない攻撃回数だ。敵の武器のリーチと速度を考えるに、それ以下はない。  また、届いたとしても素手の攻撃がどこまで通用するかもわからない。  それでもタクムに迷いも恐怖もなかった。  一流と、目を合わせる。  一人では、人ならぬ身のクマに勝てる気がしない。だが一流となら、勝利への道筋が見える彼女と一緒なら、勝てる。  ならばどうして、恐怖することがあろうか。 「下から行け!」  下、という意味が捉えにくい指示にも、タクムはよどみなく動く。  一流に見えているのと同時に、タクムにも自分のできる動きがわかっている。  地べたに顔がつくほど低く体を伏せ、突進する。  その頭上をクマの段平が薙ぎ、髪を掠めた。 「右!」  両手も使って、地面を突き飛ばす。強制的に右へと跳ぶ。  半瞬まえにタクムがいた場所に、段平が叩き込まれていた。 「――う」  上。着地したと同時に地を蹴り、体を浮かす。つま先の下を、土をえぐりながら刃が通過した。  ここまでで、三合。  ――ダメだ。  あと一歩分で、クマへと届く。  だがタクムの体は、死に体になっている。体を浮かしている状態では、どこへも動けない。タクムが地面に足を下ろすより速く、クマの次なる攻撃がタクムを絶命せしめる。  ――一流さん!  一流が何かしらを叫んでいるのが見える。  だが、声が聞こえない。  クマの刃が翻り、タクムの右肩から袈裟斬りに振り下ろしてくる。強引過ぎる軌道に鉄板に等しい刀身がゴム材のように曲がっていた。  その不規則な動きが作り出した真空が、一流の声を遮断していた。  轟。  圧縮されたすさまじい音が、山を震わせる。  二人の動きは、止まっていた。 「――そう。ともに支えあい、高みへといたることができる、それが人なる道だ。他を食らい、独りで亡き骸を積み上げることしかできぬ獣の道では届かぬ高みよ」  静寂に、クマの声が染み入る。  タクムは、クマの段平の刃に右の手のひらで受け止めていた。そして左腕を、クマのわき腹に半ばまで突き刺していた。  先ほど、タクムが刀で傷つけた場所だ。 「見事」  クマの巨体が、傾く。  左手で段平を振りぬいた姿勢のまま、地面に倒れこんだ。  大きな音が山にこだまする。 「――ふぅ」  ためていた息を吐いた。  右手のひらを見る。赤くはなっているが、切れてはいない。  タクムが手を当てた部分は、タクムの刀をへし折った一撃を放ったときにつぶれていたのだ。同じ鋼である、一方をへし折るほどの一撃なら、もう一方も無事ではすまない。  そのクマの一撃を右手で受け、威力をそのまま左手に伝え、クマの傷口に叩き込んだのだ。  左腕は肘から先はズタズタだった。いたるところの皮膚が裂け血が出ている。指も二本ほど、曲がってはいけないほうに曲がっていた。  ――ああ。  傷を目にしたらだんだんと痛くなってきた。  だが、悪い気はしない。  ――勝ったんだ。  特に満足感や高揚感はない。ただ、無事に終わったという安堵だけがあった。  すっと意識が遠くなる。 「タクム!」  一流の声が遠くに聞こえ、タクムの意識はそこで途切れた。  たぶん、手加減をされた。  それは二日後、病院のベッドで目を覚ましたタクムが思ったことだ。  そもそも、わざわざ結婚の日を教えてくることがおかしい。  当日、屋根にいるタクムに気づいているのに放置していた。また、あのときのクマと一流の話を聞いて、タクムは一流を助けることになったのだ。そう思わせるように、彼が話を仕向けたのではないか。  何より、今こうして無事でいることだ。  あれだけの騒動を起こした相手を、助けている。あまつさえ、わざわざ組の息のかかった病院にまで入れてくれた。  ギプスで固定されている左手を見た。腕にヒビが入っていて、中指は粉砕骨折していた。全治二ヶ月。全力以上の力で鋼鉄を打ち抜いたのだから、無理もないが。 「……はぁ」 「む。どうかしたか」  ベッドの横のいすに座った一流が言った。 「いえ。世をはかなんでいただけです」  タクムは右手だけでりんごの皮をむく。親指と人差し指でナイフを支え、ほかの指でりんごをまわすのだ。皮はつながったまま千切れることなく、皿の上に積み重なっていく。  一流はそれを食い入るように見ていた。彼女の手も包帯が巻かれている。ただし、これは別に戦った怪我でなく、ついさっきりんごの皮をむこうとして自分の肉をえぐり、治療されたものだった。 「すごいもんじゃの」  常人にはなかなかできない芸当をやってしまってることに、いまさらながら気づいた。いまさら彼女の前で取り繕っても仕方ないのだが。  結局手の上だけでりんごを八等分して、ひとつを一流に渡す。  りんごはクマが差し入れてくれた。タクムとの勝負がついてからすぐ、クマは起き上がったそうだ。結局すべて彼にしてやられた気がする。  彼は言っていた。自分にできる精一杯で一流殿を幸せにしたい。その結果が、もしかしてこれではないのか。  一流を助けるように、タクムを仕向けると。一応、勝負という  りんごをほおばって「む、うみゃいのう」などともごもご言う一流を見て、ぼんやりと思った。 「ちなみに、一流さんはいつまでここにいるんですか」 「いつまでじゃと?」  鼻息荒く答える。 「ずっとじゃ!」  うわ、りんご飛んだ! 「言ったじゃろ。鍛えなおすと。おぬしはちっとばかり腕が立つようじゃが、心根はまだまだじゃからの。なに、見込みはある。わしが鍛えなおしてやれば、立派なサムライとなるじゃろう」 「前から思ってたんですが、一流さんのサムライ観ってちょっとおかしくないですか?」 「な、なんじゃ。これでもちゃんと研究したのじゃぞ。おじいさまが亡くなってから誰も教えてくれんかったから、テレビを見てだな」 「時代劇ですか!」 「わ、悪いかっ」  一流は顔を赤くする。  いいとか悪いとかでなく、根本的に間違ってる。 「そんなこと十年以上やってきたんですか……」 「そういうおぬしこそ、十年以上腐れておたのじゃろう。お互い様じゃ」  たしかに、それはそうかもしれない。  タクムは一流の生き方を変えてしまった。それがいいことか悪いことだったかは今となってはわからない。  ただ、変わってしまったのはタクムのほうも同じなのだ。 「そういえば、こいつを預かっていたな」  そういって、タクムの眼鏡を袂から取り出した。 「ああ、それはもういいんです」 「いい? かけんのか?」 「はい」  あとから思えば、どうしてあんなことを言ったのかわからない。魔が差したとしか言いようがない。 「このほうが、一流さんの顔がよく見えるので」  一流は目を二度しばたかせたあと、見る見るうちに赤くなり、その場でぶっ倒れた。                 了