行列の人混みと言うものは、大概にして息苦しいものだ。
 四方を人で囲まれた小さなスペースに押し込められ、ろくに身動きもできず。
 この季節ならなおさら、夏のじめじめした空気と相まって、いっそう心地が悪い。
 がやがやとした喧騒の中、額に汗を浮かべてただひたすらに待っているのには、正直うんざりしていた。
 そんな中、唯一僕の気分を和ませてくれる、柔らかな感触が、するりと抜けていく。
「……小毬さん?」
「ふぇ?」
 
 
こまりんとデートに行こう ―遊園地編―
 
 
「ほわぁ……あ、暑い〜」
 繋いでいた手を離した小毬さんは、もっていたポーチから財布を出すと、
「の、飲みもの買ってきますっ」
 駆け出そうとして、
「ほわぁ!で、出れない〜……」
 人壁の前に撃沈していた。
「…………っ」
「ふぇぇ、理樹くんに笑われたぁ!」
 いや、だって、ねえ。
「ぷー……理樹くん、人の不幸を、笑っちゃいけないのです。どうせ笑うなら、人の幸せの方がいいよね?」
 いつものように人差し指をたてて言う小毬さん。
 ぷくっと頬を膨らませている。
「いやいやいや」
 ぜんぜん怒られてる気がしない。
「………むぅ」
 小動物のように身を縮めると、小毬さんはぷいっとそっぽを向いてしまった。
 星のついた髪飾りが揺れて、その下、柔らかそうな耳たぶが目に入る。
 僕は自分の鞄からお茶の入ったペットボトルを取り出して、そのさらに奥、小毬さんの頬にぴとっと当ててみた。
「ほわぁ!?」
 突然訪れた冷たい感触に驚いたのか、小毬さんの全身がびくんと跳ねる。
「り、理樹くん〜!?」
 ぷんすか怒って振り向いた小毬さんに、一言。
「小毬さん、これ、飲む?」
「……いただきます」
 あっさり大人しくなった。
 ふたを開けて、一生懸命にお茶を飲む小毬さんは、ハムスター的な可愛さがある。
 こくんこくんと上下する白い喉がまぶしい。
「ぷはぁ……こくこくこく」
 ……い、息継ぎ?
「ぷはぁ……こくこくこく」
 ペットボトルの中身がどんどん減っていく。
 小毬さん、いったいどれくらい喉が渇いていたんだろう?
「ぷはぁ……い、生き返ったよぉ……」
 ふにゃんと笑う小毬さん。ほんわかオーラがいつにもまして撒き散らされていた。
 不意にいたずらしたくなって、小毬さんに言ってみる。
「小毬さん、間接キスだよねこれ」
「ほ、ほわぁぁあああ!?」
 あわてる小毬さんを見ながら、しみじみと思った。
 ああ、この人は――なんて可愛いんだろう。そして、アホっぽいんだろう。
 開演まで、あと10分。
 
 
 
 付き合うようになってから、僕たち二人は週に一度街でデートをしていた。
 小毬さんのおすすめスイーツを食べに行ったり、お互いの私服を買いに行ったり、装飾品のお店をひやかしにいったり。
 僕たちはそれで十分楽しかったんだけど、納得しない人が何人かいた。
 筆頭は恭介だった。
「理樹」
 ある日僕と真人の部屋を訪ねてきた恭介は、開口一番にこう言った。
「小毬と遠出したくないか?」
「……は?」
 恭介が言うには、近くの町まで一緒にいく程度では、デートのうちには入らないらしい。
 僕は言ってやった。
「恭介はどうなのさ」
「俺か?俺は行ったぞ、東京国際展示場まで。美魚と二人でな」
「い、いつの間に……」
 ていうか国際展示場って、なにを展示してるんだろう?美術館みたいなものなのかな?
「というわけで理樹、ここに某巨大テーマパークのチケットが二枚ある」
「……どこで手に入れてきたのさ」
「小毬と二人で行ってこい」
「いやいやいや」
 そんなものをもらったら、さすがに悪い。ていうか、恭介と西園さんで行けばいいじゃないか。
「私はあまり、体力がありませんので」
「わあっ」
 恭介の後ろから、西園さんがひょっこり顔を出す。
「炎天下のなか、アトラクションに乗るために何十分も並んだあげく、暗闇のなかで振り回されたりした日には、私は死ぬ自信があります」
 ……そうか、だから恭介と西園さんは、国際展示場なんて所に行ったのか。
 展示してあるのを見るだけなら、あまり体力も使わないんだろう。さすがに死ぬは大袈裟だと思うけど。というか死ぬ自信ってなんだ。
「……よく言うぜ」
「なにか?」
「いや、なんでもない。というわけで理樹、遠慮せずに行ってこいよ」
 なぜかひきつった笑いを浮かべた恭介が、改めてチケットを差し出してくる。
 でも……
「なんだったら、俺と理樹で行くか?」
「……アリです。超アリです。ものすごくアリです。棗、なお――」
「いやいやいやいやいやいや」
 なんだかものすごく嫌な予感がした。
「……ほんとにいいの?」
「ああ、いいさ。小毬と楽しんできてくれよ」
「う、うーん……」
 嬉しいんだけど。そりゃ嬉しいんだけど、これ、いったいいくらしたんだろうとか考えると、すごく気が引けるというか……。
「別にいいじゃねえか行ってもよぉ、俺は気にしねえよ」
 筋トレしていた真人が口を挟む。
 いや、そりゃ真人は気にしないでしょ。
「んじゃ、そういうことで」
「幸運を祈ります」
「あ、ち、ちょっと!」
 真人につっこんでいる隙に、恭介と西園さんは部屋から出ていってしまった。
 そして自分の手には、いつの間にやら、チケットが握らされている。
「……………」
 途方にくれる僕。
 
 
 
 結局それを使って、小毬さんとデートに来ているのだった。
 
 
 
 入ってみれば中はやっぱり広くて、人混みはすぐに散っていってしまった。海に面しているからか、意外と涼しい。
「ほわぁ……でっかいねぇ」
 入ってすぐ、いきなりそびえ立つ堅牢な塔に、小毬さんが感嘆の声をあげる。
 確かあれは数年前に話題になった、エレベーターをモデルにした絶叫マシンのはずだ。
「……乗ってみる?」
「んーと……」
 人差し指を唇に当てつつ考える小毬さん。きょろきょろと辺りを見渡す表情もどこか幼く見えて、いつもよりうきうきしているのが手に取るようにわかる。
 当然僕だって同じ気持ちだ。
 せっかくここまで来たんだし、思いっきり楽しんでみよう。
 自分でもにやけていることを自覚しながら、悩む小毬さんとパンフレットでも見ようかと思って声をかけ――
「……小毬さん?」
「い、いい匂いがする〜……」
 ようとしたところで、いきなり小毬さんがふらふらと歩き出した。
 なにかに吸い寄せられるように、頼りない足取りで、しかし目だけは爛々と輝いて。
 慌ててついていく。
 心なしか、甘い匂いがしてきたような……
「……ちょ、チュロス?」
「はちみつ〜」
 小毬さんの歩みは止まらず、流れるような動きで財布を取り出し、瞬く間にお金を払って、
「……げっとですっ」
「いやいやいや」
 顔を綻ばせて持ってきたのは、紙に包まれた二本のチュロスだった。
 甘いはちみつのいい匂いが、ふんわりと漂ってくる。
「小毬さん……よく気付いたね、これ」
 いい匂いって言ってたけど、僕にはそんなもの微塵も感じられなかった。
「えへへ〜……理樹くんもどうぞ〜」
 ふにゃふにゃに緩んだ表情で、小毬さんが片方を差し出してくる。
 ……勝手に歩いていかれた仕返しに、ちょっといたずら。
 眼前のチュロスを、受け取らないでそのままぱくりと一口。
「ほわぁ!?」
「……うん、おいしい」
 唇についた表面の砂糖をなめとって一緒に咀嚼する。さくさくした感触と、かるい甘さが二口目を誘う。
 もう一口、ぱくり。
「ほわぁ!?」
「……うん、やっぱりおいしい」
 三口目。
「り、理樹くん〜〜〜!?」
 もういいや、全部このまま食べちゃえ。
「ほ、ほわぁぁあああ!?」
 
 
 
「幸せスパイラルだよね、あれも」
「うー……すっごく恥ずかしい〜……」
 チュロスを食べ終わったあと、改めて僕たちは園内をまわることにした。
 ちなみに小毬さんのチュロスは、僕がきっちり食べさせてあげた。
「小毬さん、なんか乗りたいものとか、ある?」
「んー……あ、コーヒーカップとか、乗ってみたいなあ」
 手元のパンフレットを眺めながら、小毬さんが言う。
 ちょっと想像してみた。
 うきうきしながらカップに入って、足でも滑らせたのか『ほわぁ!』とかいいながらハンドルを思いっきり回しちゃって、あっという間に目を回してダウンする小毬さん……
「……本気?」
「り、理樹くんなに考えてたの……?」
 ……まあ一応僕もついてることだし、そこまで大変なことにはならないだろう。
 それに決めたじゃないか。
 これからは……強く生きると。
「僕は……行かなきゃね……」
「り、理樹くん?」
「小毬さん!」
「ほ、ほわぁあ!?」
「わかったよ。コーヒーカップ……乗りに、行こう」
「な、なんかすっごい怖い〜……」
 覚悟を決めた僕は、小毬さんの手を引いて。
 ゆっくりとカップへと歩いていった。