なにかいやな匂いがする。
絨毯の暖かさについうたたねしてしまっていたフェイト・T・ハラオウンは、自室に漂う異臭に気づいて目を開けた。
最近はやっとJS事件も片づき、ようやく休めるかと思ったら、こんどは事後処理で一杯一杯。やっとの思いで取れた休みにもどこかへ行こうという気は起きず、くたくたに疲れていたフェイトにとってこのうたたねは天国のような心地であったが、しかしその分この異臭が十倍も百倍も憎らしく感じる。
久々の休養を邪魔する、血も涙も無いようなこの仕打ちに、彼女は眉をひそめて起きあがる。
「……むにゃ」
若干寝ぼけていた。
彼女は可及的速やかに問題を解決しようとする。寝起きで上手く働かない頭を右へ左へがくんがくんと揺らしながら、彼女は考えた。
臭いの元は何処だろう。
あー、あーと眠気の余り意味のない声を断続的にあげながら、自分が寝る前何をしていたか、思い出そうとするフェイト。
たしか今日はお昼までたっぷり寝た後、クラナガンのスーパーまで買い物をしに行ったはずだ。
どうしても買わなければならない物があったから、ぜいぜい言いつつも執念で帰ってきたのを、彼女は良く覚えていた。
……しかしはて、買わなければならない物とはなんだったろうか?
今度は頭を上下に揺らしながら考える。
たしかあの後、帰ってきてすぐにお鍋と型を用意して、それから……
「っああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!」
眠気が一気に吹っ飛んだ。
彼女の通り名、『閃光』さながらに跳ね起きたフェイトは、そのままの勢いで台所へ突撃する。
立ち上る黒煙。
異臭の源は、彼女の悪寒を裏切ることなくそこにあった。
「いっ、あ、うぇあ、きっ……!」
がくがくと震えるフェイトの口からは、断末魔が日干しになったような、声にならない声が漏れてくる。
そう、それはまるで、鍋の底にへばりついた、チョコレートの残骸のように……
「ーーーーーーーーーーーーーーーー!!!」
誰がどう見ても、『焦げてる』なんてレベルじゃなかった。
どうやら湯煎に使っていた器が倒れて、チョコレートが鍋の中にこぼれたらしい。
カンカンに熱くなった鍋は、もくもくと煙を吐き出しながら、変わり果てたカカオと砂糖の残骸を未だなお焼き続けている。
「アルフ、アルフーーっ!」
とりあえず火を止め、もうもうと立ち上る黒煙をどうにかしてから、彼女は自分が最も頼りにする使い魔の名を叫んだ。
が、いくら待っても返事は来ない。
これはおかしな話だった。
完全に目を覚ましたフェイトは、必死に過去の記憶をたぐり寄せる。
自分の記憶が正しければ、おそらく自分は寝てしまう前に、アルフに火の番を頼んだはずなのに……
「アルフ、アルフ、どこ、どこにいるの、アルフー!」
マジ泣きしそうになりながら、フェイトは必死でアルフの名を呼んだ。
虚ろな目で数十分ほど延々とそうしていた彼女は、見かねて明滅した自分の相棒、バルディッシュのお陰でようやく気付く。
そうだ、念話にすればいいんだ。
『アルフ、今どこ?』
『ん、フェイト?』
とぼけた声が帰ってくる。
やっと聞こえたかけがえのないパートナーの声に、たまらずフェイトは涙をこぼす。
が、念話の向こうのアルフは感知を切っているのか、こともなげに問い返してきた。
『今?まだユーノのとこだけど……それがどうかしたのかい?』
『む……無限書庫?なんで……?』
『ユーノにチョコ持ってくからって、言ったじゃないか』
……そうだっけ?
フェイトはたぐり寄せた記憶の中には無かった出来事に、ちょこんと首をひねる。
『フェイトだって作ってただろ?ハートの型、今年こそユーノに渡すんだって、お昼くらいに用意してたじゃないか』
そう。そこまでは覚えているのだ。
今日はバレンタイン。疲れた体にむち打って買いに行ったのもチョコレート。
不安でいっぱいな心に渇を入れて、ハートの型を買ってきて。
10数年間一度たりとも渡せなかった本命チョコを今日こそ渡すのだ、と年甲斐もなく乙女(笑)の様なことを考えながら、頑張って鍋に向かっていたはずなのだ。
しかし。
『で、でもアルフ、私、アルフに火の番頼んでおいたよね?』
眠気に負けて仮眠だけとろうとした彼女に、手をさしのべてくれたのはほかでもないアルフだ。
そして、目を覚ましてみたらKONOZAMA。あんまりにもあんまりな仕打ちと言わざるを得ない。
『でもフェイト、うんいいよーって返事したじゃないか』
『……え?』
しかしフェイトの怪訝な表情は、この一言で一気に色を変える。
『覚えてないのかい?うーん、しっかりした返事だったから、てっきり目は覚めてるのかと思ってたんだけどね……バルディッシュも、覚えてるだろ?』
『Yes』
『………………』
無機質なデバイスの声。それが耳に届いた瞬間、フェイトは完全に機能を停止した。
……なんて馬鹿なんだろう、自分は。
『ふぇ、フェイト、ごめんよ?』
いや。
アルフはなんにも悪くないよ。悪いのは私だ。
そう言おうとして、でものど元で引っかかってとまった。
別にアルフのせいだ、とか思ってる訳じゃない。ただ。
「……母さん、私もアルハザードにいくよ」
『フェイト、フェイトっ!?大丈夫かいー!?』
あまりにも愚かな自分に、死にたくなっただけ。
とりあえず手っ取り早く虚数空間に飛び込めばいいやとか考えるフェイト。
と、その時。
『どうしたの、フェイト?』
頭の中に響いた声に、フェイトの思考回路は一瞬でパンクする。
柔らかく、透き通った声。
なめらかなシルクを思わせるような……彼の髪の毛と同じ、綺麗に澄み渡る声。
『ゆ、ゆぅのー!』
『……あ、頭でも打った?』
絶望のどん底によどんでいたフェイトにとって、それはまさしく救いの女神の声だった。
で。
「それでねフェイト、チョコレートを溶かすときは、こうやって電子レンジでもいいんだよ」
「う、うん、ありがとう……」
なんでかわからないけど、フェイトはユーノと並んで、チョコレートを作り直していた。
あのあと。
振ってきた救いの手に、フェイトは自分のしでかした失敗と、自分が如何に残念で駄目で馬鹿でアホな人間なのかについての愚痴を延々とかました後、苦笑いするユーノの、
『じゃあ手伝ってあげようか?』
という言葉に、一も二もなく頷いていた。
どっかのモスキキンもこれには太刀打ちできないだろうというようなネガティブスパイラルを見事なまでに吹き飛ばし、無駄にソニックフォームとか使って通常の三倍の速度で掃除。
誇り一つない状態にしてから今度は着替え。思いっきり気合いを入れた服にナチュラルメイクをして。
ユーノが無限書庫の仕事を終えて訪ねてくるまで、正座してテカテカしながら待っていたのだ。
当然時刻は夜になる。アルフは気を利かせてくれたのか、リンディ達のいるハラオウン家に帰ってくれた。
これ幸いと、親友が聞いたらあまりの駄目っぷりに泣き出すくらいの妄想をよだれ垂らしながら一通りして。
そして、気が付いたら。
「ほら、簡単でしょ?これなら仕事が忙しくても、ちょっとした時間に作って食べられるよね」
「うん……そうだね……」
なぜかユーノの隣でお菓子作りの特訓を受ける羽目になってました。
しかも肝心のユーノは、バレンタインのことなどすっかり忘れているのか気付いていないのか、自分のハートの型を見せても一切動じない。
そもそも、だ。
女の子の家に来て、日が落ちて、しかも二人っきりなのに。
おもわずちょっとぶーたれた。ほんの少し寂しくもなる。
「……フェイト?」
「あっ、えっ、なにユーノ?」
「いや……なんかまずかったかな?僕、なんかした?」
しまった。
軽く落ち込んでいたのがばれたのだろうか。
心配そうに自分の瞳をのぞき込んでくるユーノ。あわてて首を横に振るが、
「……うーん。フェイト、君、もしかして疲れてる?」
「う……」
目の下にクマでもできていたのだろうか。頬が熱くなる。赤くなっているのが、自分でもわかった。いや、でもさっき化粧台に向かったときは、なんにもなかったし。
「だ、大丈夫だよ。ほら、続き、教えてくれるんでしょ?」
「……あんまり無理しちゃ駄目だよ」
ため息を一つついて、またチョコに向き直るユーノ。
「無理なんかじゃないよ」
「どうかな。最近仕事続きだったんだろう?」
ああ、そうだ。ユーノは何でも知っている。
……でも、なんで?
「……そんなに疲れて見えた?わかるの?」
「そりゃ、わかるさ。フェイトのことならね」
かっ、と一気に頬の熱さが増した。
……この男は。この男は、わかって言っているのだろうか。
たった一言が、如何に自分を狂わせていくのか。本当は全部、わかっているんじゃないかと思うくらい、その言葉は破壊的だった。
頭がぼうっとする。眠気じゃない。眠気だけじゃない。
確かに疲れてはいたが……まだ、休みたくない。
「君は昔っから、無茶ばっかりするからね」
どきどきと高鳴る心臓、自然にゆるんでくる口元。
「……そんなの、ユーノも一緒でしょ」
例え気付いて無くても、全然わかってなくても。
「む……僕はいいんだよ、僕は」
もう少し、このままで。
「……大好き」
いいわけないでしょ。
あ。
心の中の独り言と、実際に口に出した言葉が逆なのに気付いても。
声はもう、空気をふるわせて、ユーノの耳に届いた後だった。
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